Yukikoのブログ

新潟市プライベート専門ピラティスStudio Fuu Yukikoのピラティスや日常のこと。プロフィール→http://yukiko-pilates.hatenablog.com/entry/2015/05/13/プロフィール

「正しさ」の呪縛

子育てをしていて、自分のピラティス指導にとても変化が起きていることを感じます。

 

それは何かと言うと、「正しさ」の中に人を当てはめない。ということ。

 

この月齢ではこれができていないといけない、早生まれの子は頑張ってクラスについていけるように遅れを取り戻さなくてはいけない、まだあれができてない、これができてない。そんな風に元々どこか外にあった価値観や経験則の中に自分の子を当てはめて見ることは、その子自身じゃなくて何か別なものを見てるみたい。


大事なことはその子がその子であることなのに。

 

ピラティスをしに来てくれているクライアントさんにも、「正しい姿勢」「正しい歩き方」「正しい呼吸」を教える??
その「正しさ」ってどこから来るものなんだろう?と疑問を感じずにはいられなくなってしまった。

教科書に書いてあった完璧な背骨と動きに近づけることが正しさ?

 

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壁にくっついて測る姿勢の正しさの定規は、その人にとってのものなの??それとも、指導者にとってのもの?

壁に背中をくっつけて自分の姿勢を知覚することはいいと思うけど、いい姿勢を作るために使うには一概に全員にいい方法とは限らないと思う。
だって頭の形もお尻の形も髪の毛のボリュームもお肉のつき方も人によって全然違うから。

 

あえて正しさという言葉を使うなら、人によって正しさは違う。その人の外側にあるものに寄せていくことが「正しさ」ではなくて、その人の持っているものの中に「正しさ」を探してあげることが本質だと思う。

外側にある「正しさ」は、その人の持っているバックボーンや環境を度外視して「ねばならぬ」に思考を偏らせる。

 

ただ、私のように「ねばならぬ」の呪縛の中にいることがとても居心地悪く感じる人間もいる一方で、「外側にある正しさ/ねばならぬ」が悪というわけではなく、その枠の中にいることで安心感を得る人もいる。

 

私自身は決められた枠の中でガッチガチに完璧を目指させられるより、ルールの範囲の中で自由に好きなように立ち振る舞えることの方を選択したい。

関節を固めて決められた通りに「動く/動かない」ようにすることよりも、関節の遊びの中でブレることを良しと思うことと一緒。

 

 

答えがある方が教えるのは簡単。型にはめて、飛び出したり足りない部分を指摘する方が楽。

と言ってしまうと語弊があるかもしれないけど、その人の中に答えを探すということは、曖昧に濁すということじゃないから、それだけマクロからミクロまで知識や経験を積んでいくことが必要で、自分はそちらの道を探究していく指導者でありたいなと思う。

 

 

人に頼らないという意味ではないけど、自分で自分を幸せにできることが子育てのゴールだと思うので、誰かが幸せにしてくれなきゃ幸せだと思えなかったり、自分の価値を低く感じてしまったりすることがあるかもしれないけど、自分自身をどう捉えるか、にかかってくることで、それって結局ピラティスを通じて伝えたいことと一緒だなって、最近よく思います。

 

 

普段何気なく選択していることが、結局生き方につながるんだよな、とこの本を読んで思いました。

選択の科学

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